昭和40年9月17日 夜の御理解
不足のない生活。信心さしていただいて、本当にもう、感謝の生活が出来るということは、そのまま、私は、不平不足のない生活だと思うのです。どうでしょうかその、いつでもどんな場合でも、その場その場でその、ありがたいなあ、有難うございますと、こう、お礼の申し上げれる内容が、段々、私共の、内容として出来てきておるだろうかと。例えば、頂いておるご飯は、それは、よし、お粥さんであっても、その、お粥さんが頂けれるということが、有難いなあということなのです。今一丁塩はなかったかと、なんかちっと、味らしいものを作らんかと。たまには、美味しいものを食べたいといったようなものではなくてです。もう、その、その時その時に、その、お粥さんでも頂かせて頂いておるということが有難いなあと、感じれれるということ。もう、ほんとに、お便所にやらせて頂いてから、もうほんとにもう、気持ちよく、大、小便さして頂くときにです。有難いなあと、もう、ほんとに、おかげを頂いておることは有難いと、目覚ましのおかげを頂いたときに、様々なおかげにその、有難いなあというような、思いが、一日のうちどのくらい、私共の、心の中をその有難いが、または、勿体ないが占めておるだろうかと。「ね」。私はあの、和行よりは心行をせいとこう仰る。例えば、心の中に不足が起こる。その起こる心をです。ぐっと、その、起こってはならないということをですねえ、私は、心の中に抑えて、ほんというたら、ここにお礼を申し上げねばならんのに、不平不足を言っているということに対して、取り組んでいかなきゃ。もう、不平不足は、そのままもう、むき出しにしてもうては、私、いつまでたっても、信心はできんと思うのです。「ね」。私は、心行が、本当にその、なされて、有難いなあという気持ちをですね、養い。そういう気持ちを、育てていきよりませんとね、いよいよの時に、おかげを受けられんです。私あの、今晩、御祈念中に頂くことが、大きな桃ですね。それは、あのう、桃太郎さんがこう、よう、桃から生まれてくるところを頂くでしょう。片一方は、桃のここんところをこうやって、その、こうやって、持ってですねえ。その、桃から生まれ出よるところを、めがでて、付いておる。それが、その、桃太郎さんじゃないですもん。ももから、出てきとるとが。もう、胸に丁度、丸に金の字の付いた、金太郎さんですもん。しかも、大きなマサカリをね、こうかついでから、桃から出ているという、まあ、奇想天外な一つの図なんですよね。桃太郎さんが生まれてこんならんのに、桃太郎さんじゃなくて、金太郎さんが生まれてきておるという、図柄なんですよ。いや、それを頂いてから、私は、今日、思っていることですよね。私ども、今日一日のこと、自分でこう、思うて見てから、いつの場合でも、「有難いなあ」「有難いなあ」と、心からお礼申し上げて来たという事なんですよ、私は。もう、それこそお便所に生かせて頂いても、目覚ましのおかげを頂いたときも、お食事さして頂くときにも、もう本当に私は申し上げます。お粥さんでも頂けておるということが、何と有難い事だろうかと、こういうこと。「ね」。私は、便所にやらせて頂いても、スムーズにおかげを頂いておるということが、もう、しっかり有難いと。「ね」。そういう、私の一日を、その、有難いとか、勿体ないとかというのを、段々占めてくるようなおかげ。と言うてその、合間合間にです、例えばその、不平不足の心が起こらんかという訳じゃないですけれどもね、起こらんわけはないけれど、その不平不足を出さずに、それをじっと、もう、不平不足をいえれる柄じゃないのに、不平不足が起こっておるということを、抑えながら、お詫びさせて頂きながら、心行させて頂いておるということ。「ね」。
例えば、剣道をする人達がですね、やっぱこう、いうなら、五と五の力を持って、立ち向かっている。いうなら、五段なら五段の人が、こうやって、こう、もう、なかなか勝負がつきそうにないわけです。「ね」。こうして。そこでその、何とか向こうに打ち込みたいために、先ず、こちらがちょっとこう、隙を見せるという、わざとこう、隙を作るという。向こうがその時に、打ち込んでくる動きを、ぱあっと、捉えてからその、打ち落とすとか、その打つとかいう時になるんですね。ちょっと隙を見せる。この辺なんか信心をさせて頂く者の、ひとつ、おー、信心を稽古させて頂く者の、何でしょうかね、工夫だと思うのですね。まあ、これを具体的に申し上げると、幾らも私の上に、それがあるんですよね。例えば、夕べ、あの、皆さんが遅うなって帰ってくる。何か起こったんじゃなかろうかと。行ったものがそのまま、帰ってこない。一時間たち、二時間たち、といったようなときです。心の中に、ふっと不安が、何か合ったんじゃなかろうことですね。そういう時に私が、あの、廊下に、いうなら、ひっくり返ってからですね。さあ、ちょっと文雄さん。一時ばっかり足を押さえてくれ。そしてあそこへ、正樹さん、三人、四人で私の身体を、抑えている。大体いうなら、普通ならあれは、神様へ向かうべきなんです。そういうときには。「ね」。神様に向かって、只今こういうことでございますが、大難は小難、小難は無難にと、おかげを頂きましてと言うて、自分の心の中に、一つの安心が頂けれる、おかげを頂かせて、例えば、皆を安心さしてという手もあるんです。昨日私が打った手は、一つ反対の手なんです。「ね」。ですから皆はどうかというと、先生がひっくり返ってから、暴れどんしよんなさっとじゃけん、大丈夫ばいなという安心があるわけなんです。私自身の心の中にもそれが、その、私の心の中に不安はあるけれどもです。いわゆる、五と五の力を持ってその、事と対決したときにです。ふっと、その、隙を見せてから斬ろうという、私の一つの工夫なんです、ああいうことは。そういうふうなことは、ですから、真似て出来ることじゃないです。自分でやはり、工夫されなきゃ駄目です。これは、私のそばに、奉仕してくださる方達ならば、それをいよいよ、余計、はあ、先生のあげな時が、あの、こう、例えば、自然の一つの、成り行きなら、成り行きと対決してござる時ばいなと、行ったようなものを感じてくださるときが、往々にしてあろうと、こう思うのです。「ね」。そういう時の、その、力なんですね。「ね」。例えば、桃太郎さんではない、金太郎さんが、桃太郎さんが生まれてくるはずの、桃の中から生まれてきておる。しかも、マサカリをこう、担いで生まれてきておるということ。「ね」。まあ、丸に金の字というのは、金光様のことじゃろ。金光様の信心のことであろうと、こう思うのです。「ね」。私達が、本当に、この、違った世界。「ね」。もっと、一段ひらけた、明るい、大きな豊かな信心のおかげの世界に、おかげを頂くためにはです、今のままでは、今のままです。ですから、絶えず私の心の中に、対決しておる。これを一つ打ち切らなければいけない。ここを改まなければと思っておる、チャンスを狙っておくということです。「ね」。そして、いわば、この大きなマサカリを持って、打ち切らせて頂こうといつも努力しておる。いつもかつも、出来ることじゃない。「ね」。ここぞという時に、それを打ち下ろして、例えば、打ち切っていくところの、おー、おかげ。いわゆる、私が、人間的な一つの、苦しみというか、悩みというか、そういう様な物も、基を正せば、一つのめぐりの所産である。「ね」。めぐりがそういう、難儀を感じさせておるのであるから、それを、めぐりを絶つ為には、絶えず私共の心の中にです、いつどういう場合にです、どこで打つ機を伺うというような、思いがいつも思索されておかなければならない。心の中に練られておかなければならない。「ね」。それにはです、絶えず、私共が、心行を怠ってはならない。いつも有難いなあと。勿体ないなあと。本当に、今日こうして、お生かしのおかげを頂いておるなあということ。それは、よし、頂いておるものがお粥さんであっても、お粥さんでも頂けれるということが、有難いなあと、しみじみ、真から、感じれれるような、例えば、信心というものがです。「ね」。また、その間に起きてくる、その、不安ではない、不足といったようなものがです。不満といったようなものが、おきてくるときに、それをあらわに出さんでです、それを、心行をもって、こんなことではならん。と、それを抑えながらです、「ね」。ここに、不平不足でも起こすだけの、柄でもない私がと、いうようなふうにそれを、いつもこう、とりくみのことと、取り組んでです、心行の分野を、段々と広げていく、作っていく。そういうようなおかげを頂いておりませんとです、「ね」。和行的、いわゆる本気でその、自分を、めぐりを打ち切ろうというような、チャンスを与えられても、それを打ち切る力がない。ただ、弱いものになってしまうのです。「ね」。そのめぐりを、打ち切らしてもらうというか、本気で改まるとこを改まらせてもろうて、初めて、いわば、今までとは違った、おかげの世界が展開してくると、私は思うのですね。どうでしょうか皆さん。一日のうち、どのくらい皆さんの心の中に、心から、有難いと思える時間があるだろうか。「ね」。そこんところを練らせてもらい。その、かげているところは、不平不足である。その、不平不足を、私共が、その事と取り組んでです。心行させて頂かねばいけんと思うですねえ。心行、そして和行、それが、一応の形で出来ていかなければならない。例えば、その、和行と言うてもです。断食とか、水をかかるとか、特別の、短期的なその行ではなくてです。まあ、私共でいうならば、ま、ここに座らせてもらうとか、朝起きをさせてもらうとか、皆さんでいうなら、日参をするとか、朝参りをするとかといったような、一つの和行がです。それが、もう、当たり前のこととしてなされてくるような、おかげです。「ね」。そこんところの、を、私は、和行というふうに頂いて、和行心行が、出けて行きよらなきゃ、さあ、ここであらたまなければならんという時に、改まる力が養われておらなければ、それを打ち切ることは出来ないと思うですね。どうぞ、おかげ頂いてください。